大切にしていること
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KAGOSHIMA
ISHIHARA
WAGYU
わたしたちの理念石原牛と関わるすべてに「感謝」し、
みなさんに喜ばれる「最高の牛造り」を
追求します。
すべての原点にあるのは「感謝」の気持ちです。牛飼いの基礎をたたき込んでくれた師匠。農場経営を支えてくれた家族。毎日一生懸命に牛と向き合ってくれるスタッフ。牛さんの買い付けから出荷まで、さまざまな関わりを持つパートナー。お世話になっている近隣の方々。わたしたちが生産した牛さんを味わってくださる消費者の皆様。そして何より、我々は牛さんの命を預かり、命をもらって生活をしているということ。そのすべてに「感謝」を忘れないことが、石原牛がもっとも大切にしていくことです。そのうえで、わたしたちが全身全霊を込めて打ち込んでいきたいことが、みなさんに喜ばれる「最高の牛造り」を追求すること。妥協せず、最高品質にこだわり続けていく。それが石原牛の志です。
代表プロフィール『石原牛が生まれるまで』
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幼い頃から牛とともに育つ
1966年(昭和41年)生まれ。鹿児島県阿久根市出身です。父親が農場を経営しており、物心ついた頃から、当たり前のように牛の世話をしていました。私は小さい頃から一貫して牛が好きです。牧草を運んだり牛の寝床を整えたり、牧場の仕事をとても楽しんでいました。中学生になった頃には、家業を継ぐことを考え始めるようになり、市来農芸高校の畜産科への進学を決めました。高校時代、何より勉強になったことは寮生活です。理不尽なしきたりも多く、ガマンしないといけない場面も多かった(笑)。でも、このとき身につけた忍耐力が、後の厳しい修業時代を乗り越える土台となっています。
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「村沢牛」の一番弟子に
高校卒業後の進路は、当初は農業大学校に進学し、農協の技術員等を数年経験してから、家業を継ごうと思っていましたが、牛飼いの仕事に早く本気で向き合いたいたくなります。そこで実地で研修できる場所に行きたいと父親に相談しました。知り合いのツテを辿って薦められたのが長野県の村沢牧場です。当時、鹿児島から長野に研修に行く人のほとんどは、去勢牛中心の牧場で修行をしていました。一方で、幻の和牛と謳われる「村沢牛」は雌牛の肥育にこだわる牧場です。私は、難しい雌牛の肥育を学ぶことができる村沢牧場で修業がしてみたいと思いました。師匠の村澤勲氏は、それまで弟子を取ったことがなかったのですが、お願いをして「構わんよ」と受け入れてもらいました。村澤氏の初めての弟子となり、厳しい修業が始まります。
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牛飼いの基本をたたき込まれる
事前に聞いていたことは「とにかく寒い場所」ということ。覚悟はしていましたが、本当に寒かった。4月でマイナス4度。その年の冬は今でも語り草になる寒さでマイナス19.5度にまでなりました。雪は降らないのですが、とにかく寒さのきつい牧場で2年間研修をしました。村澤の親父さんはすべてにおいて厳しく、妥協を許さない人でした。私が初めての弟子ということもあって、すべてを教え込もうと思っておられたのだと思います。牛の扱い方、ロープの引き方といった基本中の基本から、とことん飼い方をたたき込まれました。修業は厳しく、正直なところ、何度も帰ろうと思うことがありました。でもそんな私を支えてくれたのが村澤のお母さんです。親父さんは牛飼いの理論、お母さんは牛を飼うことについての天才でした。「石原さん、がんばりないよ」というお母さんの言葉で、つらい修業を耐えてくることができました。
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「村沢牛」の牛造りの神髄
村沢牧場で修業をした研修生が「村沢方式」と考える牛造りの神髄があります。それは、最初の3カ月で良質な牧草を食べさせて腹づくりをすること。そこから餌の量を数か月かけ徐々に上げていき、マックスの状態をできるだけ長くキープします。成長を牛任せにするのではなく、1頭1頭としっかり向き合い、手をかけて肥育していく。まさに「牛造り」です。最初から餌をドカンと与えて、成長を牛任せにしている牧場とは、手間のかけ方が根本的に異なります。高い牛を買い付けていい成績をあげるのであれば誰にでもできますが、たとえ平均以下の牛であっても、才能を最大限に引き出し、最高の牛に育て上げる技がある。だからこそ「村沢方式」は簡単には真似することができないのです。
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家業の肥育経営を継ぐ
2年間の修業を終えて、鹿児島に戻り、家業の農場経営を継ぎました。1986年のことです。肥育の方法は村沢で学んできたやり方に一気に変えました。今までとは餌も違う、飼い方も違う。村沢では当たり前にやってきたことですが、結果が出るまで時間がかかり、不安になって何度も長野まで確認をしに行きました。大きく変わったことのひとつは、餌を自家配合するようになったこと。当初は攪拌機がなかったので、通路に麦、トウモロコシ、ふすま等、数種類を重ねてスコップで混ぜていました。1年半ほどが経ち、最初の結果が出たときに、「やってきたことに間違いはなかった」と自信が持てました。以来ぶれることなく「村沢方式」をやり続けています。
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株式会社マル善を設立
3年目となる1989年には、肥育と並行して繁殖をはじめました。一貫経営にすることでコスト面でも安心して経営が続けられることを目指しました。繁殖は順調に進み、飼育に手応えもありました。しかし両親が引退することになり、先々のことを考えました。家族経営で繁殖30頭、肥育150頭の規模でやってきましたが、農場の大きさを考えたら500頭まで増やしたい。そのときに、お産まですべての面倒を見る繁殖を続けることは、家族に大きな負担をかけることになります。そこで繁殖は休み、肥育一本で行くことに決めました。2009年、株式会社マル善を設立。人を雇って500頭まで肥育ができる体制を整え、牛の買い付けにも行けるようにしました。社名の「マル善」は、私の名前の「善」と、縁起をかつぐ「マル」を組み合わせてつけました。
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脇本農場500頭。長島農場1000頭
2017年、転機が訪れます。長島にある農場が売りに出され「買わないか」と声がかかりました。長島農場は、脇本農場の倍となる1000頭規模の農場です。土地を購入するだけではなく、牛をゼロから導入しなければならないので、かなりの資金がかかります。簡単に決断できることではありません。でも長島農場の優秀なスタッフたちが残ってくれることになった。それが決め手となり、農場を買う決断をしました。やはり牛造りは「人」にかかっています。熱意を持って取り組んでくれるスタッフがいるからこそやっていける。長島農場は「村沢方式」を取り入れていた農場でしたが、私とは解釈が少し異なりました。30年以上かけて磨いてきた私なりの品質のこだわりがある。そのやり方、考え方を農場長に伝え、スタッフたちが理解して現場で実践してくれました。そして今、素晴らしい成績をあげる農場となっています。
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「牛造り」の伝統を継承していく
全国各地に和牛ブランドはありますが、個人名を冠したブランドはほとんどありません。その代表的なものは、私が牛飼いの技術を学んだ「村沢牛」です。その技を継承し、30年以上磨き続けてきました。これまで研究してきた理論もある。最高品質の黒毛和種を安定して提供する体制も整えてきました。牛造りに妥協を許さないという姿勢。そして自信と責任を持って世の中に提供していきたいという想いから、2020年、私たちが生産する牛を「石原牛」というブランドで提供していくことを決めました。日本各地の牛飼いが技を磨き、伝統を継承してきた和牛は、世界からの評価も高く、その技を守り続けることは日本の食文化を継承していくうえでも大きな意味を持つと考えています。さらに、食に関することは、生産者の顔が見えるということも、今後はより重視されてくると思います。
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石原牛が目指していること
少し堅苦しい話が続いてしまいましたが、私が本当に伝えたいことは「石原牛は美味しい!」ということです。食は安心安全であることはもちろん、何より「味」が大事だと思います。究極はそこに尽きる。食べた人に「美味しい!」と言ってもらいたい。笑顔になって欲しい。そんな想いで、スタッフたちは20カ月600日。丁寧に1日1日を積み重ねています。最高品質は偶然で生まれるのではなく、そうなるだけの確かな理由があります。その秘密を知ってもらうことは、食の体験を豊かにすることにもつながります。食を通じて楽しさを感じられることも石原牛というブランドから発信していければと思っています。私は小さい頃からずっと、牛とともに育ち、牛とともに生きてきました。仕事が本当に楽しくて、苦になったことは一度もありません。その気持ちはこれからも変わることはないでしょう。